「校正夜話」感想文
【管理者より】
この文章は、1982年に刊行された西島九州男著『校正夜話』(日本エディタースクール出版部刊)後半部分の感想文です。当社派遣就労者のキャリアアップ研修の一環として、在宅作業で書かれました。題材は古いものですが、現代にまで通底する内容があり、感想文としてもよく書かれているため、ブログで公開することにしました。小見出しは管理者が付けています。味読ください。
★漱石全集の校正
時勢に沿って、若い人に読みやすいように新字体・新仮名使用、難しい漢字は仮名にするという方針の漱石全集が刊行されるなか、大正13年に岩波書店に入社した筆者が携わる漱石全集の方針は原典主義でした。ここでは、第一次・第二次の「漱石文法」(漱石の特色は保存しながらも、それによって画一にならないように仮名遣いや送り仮名などを整理してゆくやりかた)から第三次の全集、いわゆる震災後版においての編集方針の変遷から、第三次における整理せず原稿どおりにする小宮式方針としたことによる間違いルビへの不満(原稿の間違いは間違いのままとしている)や、組版について火災後の印刷所での活字のタイプを揃えるために苦労した話などがつづられます。そこから、昭和42年刊行の大型全集からルビの仮名遣いに限って正しく揃え、本文は原稿に従って本文の仮名遣いの間違いなどは、原稿に従ってそのままとなったこと、そこに至る理由としてあげられるのは漱石が朝日新聞の文芸欄を担当していた時に、志賀直哉へとあてた手紙の中の「ルビなんかいい加減に振っておくと、向こうでちゃんとやってくれる」との言葉。そこから忖度し、間違いルビについても、漱石は間違えないように振っただけで、こちらが「これは間違ってますよ」といえば「正しくしろ」というに違いないと結論付けます。本文の仮名遣いについてはいくつか例を出し、「特に辞書だけでは割り切れない点があって、こういうものが文学もののニュアンスのひとつにもなる」と述べ、「この松は周り一尺もある大きな樹で」とあり木の周囲と直径を取り違えたと思しきもの、「木米」と「杢兵衛」など単純に間違えたと思しきもの、「よりけり」と「よりきり」、「日がかぎる」「話しばいがする」「いっちょうらい」「あとびさり」など江戸っ子である漱石の東京の訛りと思しきもの。ほかにも、あて字名人といわれる漱石の辞書どおりになおしたら面白みが無くなってしまいかねないものとして、「非道(ひど)い」「凡倉(ぼんくら)」「盆槍(ぼんやり)」「三馬(さんま)」などのあて字。杓子定規的な校正は要注意事項のひとつと筆者は語り、文学物の校正の難しさが伝わってきます。
★名人・大作家の校正に問われたこと
また、人・時代により特殊な表現があるとともに、同じ人でもその執筆年代により用字・用語・仮名遣いに変遷がみられ、編集・校正ともに十分な配慮が必要だと例をもって説明されます。例えば泉鏡花の場合、「玄人」を「苦労人」、「とうふ」の「ふ」は「腐」の字を嫌って「府」を使い「豆府」としていること。漱石門下の小宮豐隆は「一応」を「一往」、「立派」を「立破」、「急所」を「灸所」と書いています。時代によるものとしては、明治から大正の初めあたりにかけて「自動車」「自動電話」は「自働車」「自働電話」など「働」の字も使われていたところを「動」が正しいとなおしてしまうと、その時代のニュアンスが無くなってしまいます。「牛車」を「ぎっしゃ」と読めば平安時代の貴人の乗用車のことになり、「ぎゅうしゃ」と読めば牛にひかせる荷車のことに、「腹帯」でも昔の軍記物などでは「はるび」、今の馬の「腹帯」は「はらおび」、「あらたし」というのは「あたらし」と同じことでも現代的に「あたらし」と直すわけにはいきません。日本語の「鮭」「鮎」は中国では「ふぐ」「なまず」と、日本に入ったときに翻訳を取り違えたものも例示されます。生国など環境によって違う例として、徳富蘆花著『自然と人生』で「石垣」を熊本方面の言い方で「いしかき」、「うすぐらい」を「うどぐらい」としています。同じ人での執筆年代による違いとしては津田右京を例として、戦後は音・訓の仮名遣いを区別し、字音仮名遣いは、せう・せふ・しゃう・しょう、ともに仮名遣いの別はあっても音には区別はないから一様に「しょう」とし、訓の仮名遣いは「水道橋からお茶の水」というような場合の「水道」は音だから「すいどう」、お茶の水の「水」は訓だから「みづ」と区別しており、この「意図」を「乱れ」と誤解しての入朱を戒めています。そこから、作家・作品に通暁している人でなければちゃんとした仕事はできないし、あて字なり言葉癖なり、文章の癖なりを知って、漢字を仮名に改めたりなんかするのはもう少し謙虚に考えなければならない大きな問題であるとし、その解決のひとつの方法として「ルビ」をもってそれを補うという考えを示します。
この後ルビの話となり、新仮名と旧仮名の振り方の違い、数字のルビ、前後が漢字の場合のはみだし、熟字訓やあて字、また外国語の片仮名ルビではルールで画一的に振るのではなく、見た目を重んじてバランスをとってルビを振るなど、読者の目線を意識した詳細な説明は参考になるところが多々あります。
★当用漢字が制定されてから
次章へ移り、当用漢字ができてからの様子が語られます。それまでは、「さす」という言葉を「差す」「刺す」「挿す」「指す」……、「ひげ」を生える位置によって「髭」「髯」「鬚」と表すなど、表意文字である漢字によって書き分けていたところ、戦後は逆に漢字制限によって字をまとめて一字に代表させる傾向に変わります。「陰」と「蔭」、「回」と「廻」、「郭」と「廓」など後者は当用漢字にないため前者に、名詞と動詞で使い分けていた「座」と「坐」も一字によって代用されるようになり、本来「げい」ではなく「うん」と読む香草の一種で「くさぎる」という意味ももつ「芸」という字が「藝」の代わりとして身代わり文字となる。原稿が、昔の正しい字の使い方をしているのか、あるいは当用漢字的に別の字を持ってきて代用させているのか、判断が難しくなってきたと言います。
また新字体の制定による混乱を、例をもってわかりやすく述べています。時代の変遷に従って使われなくなってゆく字や音訓の限定、読み方の慣用。昔の表記では濁点をつけないので「いちぜんめしありやなきや」を「一膳飯あり柳屋」とせず「一膳飯ありやなきや」と読む落語の話を例に、文学の校正の難しさを伝えています。さらに、明治時代の小説などで「所天」を「おっと」と読んだり、「二八」を二十八ではなくニハチで十六の意としたり、幕末明治の脚本作家河竹黙阿弥の世話物に出てくる今はあまり使われない「烏金(からすがね)」や「日済金(ひなしがね)」など日歩で貸借する高利の金銭の称についてなど、常識に富むことを校正に欠くことのできない大切な資格と説きます。
★原稿を正しいものとして信頼する
また自身の経験として、「辞書に頼れ、しかし、それだけに頼り過ぎてもいけない」といい、「校正はあくまで受身の仕事であるということをまず念頭におき、原稿を正しいものとして信頼して、どうしても正さなければならない原稿上の誤りは絶対にとりにがさないように、目と心を配る、というのが、出過ぎでも引っこみ過ぎでもない校正者の態度といえましょう」と結論づけています。
12章では筆者の過去の仕事としてエピソードを交えて、「広辞苑」第一版制作時の苦労、「広辞苑によれば…」と引き合いに出される国語の辞書が出来たがまだまだ不満足な出来で改定第二版まで十数年かかった話から、「広辞苑」は常識辞典であると述べ、「あらゆる場合を書くことは出来ませんし、平均したことを書いてある。字引というものは、一つのことを規定するもので、しかも端的に短く書く。だからすべてのことをそこへ当てはめては良くない場合がある」とし、校正をする人間は、辞書といえども絶対に正しく間違いがないと思い込んではいけない、納得がいかないことがあれば他の参考書や辞書で確かめるぐらいの入念さが必要だと述べています。旧制中学の教科書を初めて作った時の話、教科書の新聞広告を打った話、戦争による影響であったり、交流のあった作家の人となりがうかがえ、興味深い読み物になっています。
終わりに筆者の校正のパイオニアとしての数々の功績が綴られます。筆者の入社当時三人だった校正係が、震災後部員五十人、外部校正者が二、三十人となり、字を直すだけだった校正が、岩波書店に入って「漱石全集」を担当し、これを校正する中で次第に細かな校正の型というものが出来てきたと述べ、例として、組の行末に句読点が来て行中におさまらずはみ出すような場合、句点は入れるが読点は取ってしまうという当時の常識を、行末の句読点をブラ下ゲるということを“発明”することで解決。あるいはこれをしないために、八分の込め物を考え出すことで行末の半端を調整する。このように字を直すだけの校正から、活字の倍数という性質を理解した組み体裁の校正まで考え、仮名遣いの整備をし、校正の型と作り出した到達点として、岩波書店の校正室の「校正要綱」へとつながってゆきます。そんな筆者も「初めは何でもなくやった校正が、晩年になればなるほど、恐くなった」といいます。人間のすることで満点ということはなかなか難しい。ところが校正は完全でなければならない。出来上がった結果で判断され、著者のミスや校了後の間違いもすべて校正の罪になる。「恐さを知って初めて一人前になる」とは含蓄のある言葉だと思います。
★「完全」を問われる校正のために――誠実と根気
校正と編集は互いに密接に関連していなければならないもの、編集の際における原稿整理は生の原稿では活字に組まれた場合ほどには目がとどかず、字句や事柄そのほか原稿全般にわたっての十分な検討はできかねるのが普通で、校正はその点を理解して、それを補足してゆく義務をもつ仕事で、編集の事務には校正の経験が必要であり、あらゆる面で校正という仕事はすべての出版業務に欠くべからざる基礎になるもの、そして校正をする人も編集・制作的な知識を持っていなければいけない。ことに編集と校正は二にして一、まったく不可分のものであると筆者は述べます。
最後に校正者の素質として「誠実」と「根気」のふたつを挙げています。「誠実な仕事を積みかさねてゆくと、それが身についた実力となって自分の中に貴重な財産として残る」「私のやった仕事の中に『函数表』という本があります。……意味のない数字の行列で、これほどおもしろくない、興味のないものはないんです。しかしそういうものもやらねばなりませんし、校正には根気というものが特に必要なことを痛感するわけです」と述べられていて、誠実と根気をもって経験を積み、校正の仕事を全うしてゆこうと新たに思いました。 (T・N)