語り継ぐVERITA―校正者の独り言―

「校正夜話」感想文
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    「校正夜話」感想文

     

    【管理者より】

     この文章は、1982年に刊行された西島九州男著『校正夜話』(日本エディタースクール出版部刊)後半部分の感想文です。当社派遣就労者のキャリアアップ研修の一環として、在宅作業で書かれました。題材は古いものですが、現代にまで通底する内容があり、感想文としてもよく書かれているため、ブログで公開することにしました。小見出しは管理者が付けています。味読ください。

     

    漱石全集の校正

     時勢に沿って、若い人に読みやすいように新字体・新仮名使用、難しい漢字は仮名にするという方針の漱石全集が刊行されるなか、大正13年に岩波書店に入社した筆者が携わる漱石全集の方針は原典主義でした。ここでは、第一次・第二次の「漱石文法」(漱石の特色は保存しながらも、それによって画一にならないように仮名遣いや送り仮名などを整理してゆくやりかた)から第三次の全集、いわゆる震災後版においての編集方針の変遷から、第三次における整理せず原稿どおりにする小宮式方針としたことによる間違いルビへの不満(原稿の間違いは間違いのままとしている)や、組版について火災後の印刷所での活字のタイプを揃えるために苦労した話などがつづられます。そこから、昭和42年刊行の大型全集からルビの仮名遣いに限って正しく揃え、本文は原稿に従って本文の仮名遣いの間違いなどは、原稿に従ってそのままとなったこと、そこに至る理由としてあげられるのは漱石が朝日新聞の文芸欄を担当していた時に、志賀直哉へとあてた手紙の中の「ルビなんかいい加減に振っておくと、向こうでちゃんとやってくれる」との言葉。そこから忖度し、間違いルビについても、漱石は間違えないように振っただけで、こちらが「これは間違ってますよ」といえば「正しくしろ」というに違いないと結論付けます。本文の仮名遣いについてはいくつか例を出し、「特に辞書だけでは割り切れない点があって、こういうものが文学もののニュアンスのひとつにもなる」と述べ、「この松は周り一尺もある大きな樹で」とあり木の周囲と直径を取り違えたと思しきもの、「木米」と「杢兵衛」など単純に間違えたと思しきもの、「よりけり」と「よりきり」、「日がかぎる」「話しばいがする」「いっちょうらい」「あとびさり」など江戸っ子である漱石の東京の訛りと思しきもの。ほかにも、あて字名人といわれる漱石の辞書どおりになおしたら面白みが無くなってしまいかねないものとして、「非道(ひど)い」「凡倉(ぼんくら)」「盆槍(ぼんやり)」「三馬(さんま)」などのあて字。杓子定規的な校正は要注意事項のひとつと筆者は語り、文学物の校正の難しさが伝わってきます。

    名人・大作家の校正に問われたこと 

    また、人・時代により特殊な表現があるとともに、同じ人でもその執筆年代により用字・用語・仮名遣いに変遷がみられ、編集・校正ともに十分な配慮が必要だと例をもって説明されます。例えば泉鏡花の場合、「玄人」を「苦労人」、「とうふ」の「ふ」は「腐」の字を嫌って「府」を使い「豆府」としていること。漱石門下の小宮豐隆は「一応」を「一往」、「立派」を「立破」、「急所」を「灸所」と書いています。時代によるものとしては、明治から大正の初めあたりにかけて「自動車」「自動電話」は「自働車」「自働電話」など「働」の字も使われていたところを「動」が正しいとなおしてしまうと、その時代のニュアンスが無くなってしまいます。「牛車」を「ぎっしゃ」と読めば平安時代の貴人の乗用車のことになり、「ぎゅうしゃ」と読めば牛にひかせる荷車のことに、「腹帯」でも昔の軍記物などでは「はるび」、今の馬の「腹帯」は「はらおび」、「あらたし」というのは「あたらし」と同じことでも現代的に「あたらし」と直すわけにはいきません。日本語の「鮭」「鮎」は中国では「ふぐ」「なまず」と、日本に入ったときに翻訳を取り違えたものも例示されます。生国など環境によって違う例として、徳富蘆花著『自然と人生』で「石垣」を熊本方面の言い方で「いしかき」、「うすぐらい」を「うどぐらい」としています。同じ人での執筆年代による違いとしては津田右京を例として、戦後は音・訓の仮名遣いを区別し、字音仮名遣いは、せう・せふ・しゃう・しょう、ともに仮名遣いの別はあっても音には区別はないから一様に「しょう」とし、訓の仮名遣いは「水道橋からお茶の水」というような場合の「水道」は音だから「すいどう」、お茶の水の「水」は訓だから「みづ」と区別しており、この「意図」を「乱れ」と誤解しての入朱を戒めています。そこから、作家・作品に通暁している人でなければちゃんとした仕事はできないし、あて字なり言葉癖なり、文章の癖なりを知って、漢字を仮名に改めたりなんかするのはもう少し謙虚に考えなければならない大きな問題であるとし、その解決のひとつの方法として「ルビ」をもってそれを補うという考えを示します。

     この後ルビの話となり、新仮名と旧仮名の振り方の違い、数字のルビ、前後が漢字の場合のはみだし、熟字訓やあて字、また外国語の片仮名ルビではルールで画一的に振るのではなく、見た目を重んじてバランスをとってルビを振るなど、読者の目線を意識した詳細な説明は参考になるところが多々あります。

     ★当用漢字が制定されてから

    次章へ移り、当用漢字ができてからの様子が語られます。それまでは、「さす」という言葉を「差す」「刺す」「挿す」「指す」……、「ひげ」を生える位置によって「髭」「髯」「鬚」と表すなど、表意文字である漢字によって書き分けていたところ、戦後は逆に漢字制限によって字をまとめて一字に代表させる傾向に変わります。「陰」と「蔭」、「回」と「廻」、「郭」と「廓」など後者は当用漢字にないため前者に、名詞と動詞で使い分けていた「座」と「坐」も一字によって代用されるようになり、本来「げい」ではなく「うん」と読む香草の一種で「くさぎる」という意味ももつ「芸」という字が「藝」の代わりとして身代わり文字となる。原稿が、昔の正しい字の使い方をしているのか、あるいは当用漢字的に別の字を持ってきて代用させているのか、判断が難しくなってきたと言います。

    また新字体の制定による混乱を、例をもってわかりやすく述べています。時代の変遷に従って使われなくなってゆく字や音訓の限定、読み方の慣用。昔の表記では濁点をつけないので「いちんめしありやなきや」を「一膳飯あり柳屋」とせず「一膳飯ありやなきや」と読む落語の話を例に、文学の校正の難しさを伝えています。さらに、明治時代の小説などで「所天」を「おっと」と読んだり、「二八」を二十八ではなくニハチで十六の意としたり、幕末明治の脚本作家河竹黙阿弥の世話物に出てくる今はあまり使われない「烏金(からすがね)」や「日済金(ひなしがね)」など日歩で貸借する高利の金銭の称についてなど、常識に富むことを校正に欠くことのできない大切な資格と説きます。

    原稿を正しいものとして信頼する

    また自身の経験として、「辞書に頼れ、しかし、それだけに頼り過ぎてもいけない」といい、「校正はあくまで受身の仕事であるということをまず念頭におき、原稿を正しいものとして信頼して、どうしても正さなければならない原稿上の誤りは絶対にとりにがさないように、目と心を配る、というのが、出過ぎでも引っこみ過ぎでもない校正者の態度といえましょう」と結論づけています。

     12章では筆者の過去の仕事としてエピソードを交えて、「広辞苑」第一版制作時の苦労、「広辞苑によれば…」と引き合いに出される国語の辞書が出来たがまだまだ不満足な出来で改定第二版まで十数年かかった話から、「広辞苑」は常識辞典であると述べ、「あらゆる場合を書くことは出来ませんし、平均したことを書いてある。字引というものは、一つのことを規定するもので、しかも端的に短く書く。だからすべてのことをそこへ当てはめては良くない場合がある」とし、校正をする人間は、辞書といえども絶対に正しく間違いがないと思い込んではいけない、納得がいかないことがあれば他の参考書や辞書で確かめるぐらいの入念さが必要だと述べています。旧制中学の教科書を初めて作った時の話、教科書の新聞広告を打った話、戦争による影響であったり、交流のあった作家の人となりがうかがえ、興味深い読み物になっています。

     終わりに筆者の校正のパイオニアとしての数々の功績が綴られます。筆者の入社当時三人だった校正係が、震災後部員五十人、外部校正者が二、三十人となり、字を直すだけだった校正が、岩波書店に入って「漱石全集」を担当し、これを校正する中で次第に細かな校正の型というものが出来てきたと述べ、例として、組の行末に句読点が来て行中におさまらずはみ出すような場合、句点は入れるが読点は取ってしまうという当時の常識を、行末の句読点をブラ下ゲるということを“発明”することで解決。あるいはこれをしないために、八分の込め物を考え出すことで行末の半端を調整する。このように字を直すだけの校正から、活字の倍数という性質を理解した組み体裁の校正まで考え、仮名遣いの整備をし、校正の型と作り出した到達点として、岩波書店の校正室の「校正要綱」へとつながってゆきます。そんな筆者も「初めは何でもなくやった校正が、晩年になればなるほど、恐くなった」といいます。人間のすることで満点ということはなかなか難しい。ところが校正は完全でなければならない。出来上がった結果で判断され、著者のミスや校了後の間違いもすべて校正の罪になる。「恐さを知って初めて一人前になる」とは含蓄のある言葉だと思います。

    「完全」を問われる校正のために――誠実と根気

     校正と編集は互いに密接に関連していなければならないもの、編集の際における原稿整理は生の原稿では活字に組まれた場合ほどには目がとどかず、字句や事柄そのほか原稿全般にわたっての十分な検討はできかねるのが普通で、校正はその点を理解して、それを補足してゆく義務をもつ仕事で、編集の事務には校正の経験が必要であり、あらゆる面で校正という仕事はすべての出版業務に欠くべからざる基礎になるもの、そして校正をする人も編集・制作的な知識を持っていなければいけない。ことに編集と校正は二にして一、まったく不可分のものであると筆者は述べます。

    最後に校正者の素質として「誠実」と「根気」のふたつを挙げています。「誠実な仕事を積みかさねてゆくと、それが身についた実力となって自分の中に貴重な財産として残る」「私のやった仕事の中に『函数表』という本があります。……意味のない数字の行列で、これほどおもしろくない、興味のないものはないんです。しかしそういうものもやらねばなりませんし、校正には根気というものが特に必要なことを痛感するわけです」と述べられていて、誠実と根気をもって経験を積み、校正の仕事を全うしてゆこうと新たに思いました。   (T・N)


    | co-verita | 校正・校閲豆知識 | 21:56 | - | - | - | - |
    「なぜ校正は紙で行うのか?」私の意見
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      なぜ校正は紙で行うのか?

       

      「校正はなぜわざわざ紙にプリントしたもので行うんですか? パソコン上でやればいいのに」。先日、このような質問を受けました。そのときは、即座にうまい説明ができずに終わりました。質問主は、こう続けました。「PDFなどのパソコン上の文章でも、今は附箋をつけたり、メモを書き込んだりすることができる。どこに紙で行わなければならない必要性があるんですか? パソコン上だけで行う校正もあったと思いますが」

      たしかに「クラウドワークス」のような、パソコンを使ったアルバイト仕事の仲介サイトでは、ブログなどウェブ上の文章の校正の仕事が提供されており、それらはエクセルなどで送られてきたデータに直接、校正を書き込んで行うようです。

      基本的には、最終的な出版形態が紙である場合に紙で、ウェブである場合にパソコン上で、行うのでしょう。

      しかし、上の質問主の方は、「紙で出版する場合でも、文字データは一度パソコン上で作るから、パソコン上で校正すればいいのではないか」、と問いたそうでした。

      これについては、最終形態が紙の印刷物なら、それに可能な限り近い状態で作業するのがよいと考えられているために、紙にプリントしたもので校正を行うのでしょう。これは、パソコン内のパソコンソフト上のデータをプリントし製本する際にも、落丁など何か齟齬が生じる可能性を考える、機械への不信用があるためと考えられます。

      けれども、このように答えても、納得はされないかもしれません。パソコンやパソコンソフトやプリンターという機械が精密に作られていれば、齟齬は起こりえないと。

      それはその通りだと思います。

       

      わたしは、他にも、各校正者用にパソコンを一台ずつ揃える費用が掛かるからではないか、とも口にしました。加えて言えば、パソコン上のデータは、誤って消去してしまうことがある、故意に改竄されうる、という理由。校正者と編集者のパソコンが異なる場合、データの受け渡しや、パソコン内でのデータの整理が面倒になる、紙の方が受け渡しや整理がしやすい、という理由も挙げられると思います。

      紙で行うより決定的理由は、校正は、原稿とゲラの2つを扱う作業であることにあると思われます。2つを比べる「引き合わせ」を行うときに、パソコン内だとやりにくい、というのが大きな理由ではないでしょうか。アオリ、折り合わせ、という技法はパソコン内では使えません。

      引き合わせに関しては、このようでありますが、質問主の方は、素読みに関わる、つぎの疑問もおっしゃっていました。

      「紙で行うのとパソコン上で行うのとで、校正の精度は変わるのか。もし紙の方が正確性が高まるなら、紙で行うのは理解できるが」

      これはどうなのでしょう?

      引き合わせは、上述のように、パソコン上だと精度というよりも、やりにくさがまず存在します。しかし、素読みになると、どうでしょうか。

      誤字脱字への気付きの精度は、紙とパソコンとで変わるのか?これについて、素読みで行う場合には、わたしの感覚ではどちらも変わりないように思えます。紙であれば素読みの精度が高まるとは、とくに言えない気がします。

      ただ答えの一側面として、つぎのことも言えるでしょう。校正記号の使用により、校正指示が簡潔明瞭にできるのが校正であるから、校正記号を使える紙の上において、校正はしやすくなる、と説明できると思います。

       

      総じて、校正が紙で行われることが多いのは、

      ・出版では紙の印刷物を最終形態とする場合がいまだ多く、それに可能な限り近い形態で作業するため、

      ・データの受け渡しと整理は、パソコンより紙のほうがやりやすいため、

      ・引き合わせは紙で行う方がやりやすいため、

      ・紙の上だと校正記号が使えるため、

       

      というところでしょうか。これは紙の方がやりやすいということであり、パソコン上のみで行うのは不可能かというのは別問題と考えられます。

                                                                                                                 (とし)

      【管理者より】

      ヴェリタのオフィスで、というよりは、派遣を中心とした校正の現場で仕事をしている仲間、(とし)さんからの投稿です。

      オフィスなどでは 紙を使った仕事よりも、1人1台ずつ持っているパソコンをフル活用した仕事が毎日の仕事の中心です。

      その意味では、(とし)さんの意見は、自分の現場に忠実に、自分の頭で現実に向きあい、考え抜いた結果であり、貴重な見解だと思います。

      とはいえ(とし)さんには、もう少しオフィスに来てもらい、その現状からもう一度考え直してみることを勧めなければいけない、と痛感しました。

      皆さんからの意見も求めます!

      | co-verita | 校正・校閲豆知識 | 18:56 | - | - | - | - |
      校正補助ツールを使ってみた
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        校正補助ツールを使ってみた

         

         以前AIのことは全く知らないが、コストの問題等を解決しないとAIは既存の校正補助ツールには勝てないのでは、と書きました。でも、ある程度の信頼性はあるだろうと推測はしていましたが、投稿した当時は実際に自分で校正補助ツールを使った経験はありませんでした。

         そんなある日、ジャストシステムの校正補助ツール「Just Right! 6 Pro」(以下「Just Right!」)がお試し期間中は無料で使えると知りました。

            http://www.justsystems.com/jp/products/justright/

          ホームページによると、「Just Right!」が誤字脱字や表記ゆれを瞬時にチェックすることで、校正者は文意や事実確認に専念し、作業時間を大幅に短縮できるのだそうです。さらに重ね言葉や機種依存文字などもチェックするなど、かなり機能は充実している様子。

         校正補助ツールの行う校正とはどのようなものか? そして、自分の書いた文章はどのように校正されるのか? お試し版をダウンロードし、前回ブログに投稿した「もっとテレビに世界史を」を「Just Right!」に見てもらいました。

         説明書に従い校正実行ボタンを押すと、瞬時に校正は終了し、校正結果:5件、表記ゆれ:1グループという結果が表示されました。校正結果5件の内訳は、誤りチェックに3件(うち、辞書に登録されていない単語2件)、機種依存文字が2件でした。

         まず、誤りチェックでは「日本すごい」が、「誤字脱字・助詞抜けの可能性があります」との指摘。文法的にはもちろん「日本はすごい」と助詞をつけて書くのが正しいですが、ネット上で使われている俗語を用いたものなので、助詞が抜けていることは承知しています。そして、辞書に登録されていない単語と指摘されたのは「にっぽん!歴史鑑定」の「にっぽん」と「てーるはっぴー」。前者は番組名で変えようがないですし、後者は筆名で変更しようと思えばできますが、変更しなかったら間違いというものでもありません。

         そして機種依存文字は「謎」が2件、「JIS X0213:2004などで例示字形が変更された漢字」としてヒットしましたが、これも間違いというほどのものではなさそうです。ただ、表記ゆれに関しては、「と言う」1件と「という」3件が混在しているとの指摘がありましたが、間違いではないにしてもそろえるべきだったと思います。唯一漢字を使った部分は「出版不況と言われる」と伝聞形式で、記者ハンドブックの記述に従うと平仮名にする場面でした。

         いろいろ思うところはありますが、とりあえず明らかな誤字脱字はなかったようでホッとしています。でも説明書では基本操作は簡単そうだったのに、実際に操作してみると当初はWordファイルをうまくダウンロードできず、四苦八苦しました。だいぶ後になって自分が最初に読んでいたのはWordファイルではなく、テキストファイルの部分の説明であることが判明。校正補助ツールの性能を云々する前に、こちらがツールをしっかり使いこなせる頭を持つことが第一のようです。          (てーるはっぴー)

        | co-verita | 校正・校閲豆知識 | 11:42 | - | - | - | - |
        アタリがつく?!
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          アタリがつく

           

          校正の仕事ではいろいろな文章を読みますが、最近になって、自分には「得意なジャンル」と「不得意なジャンル」があるなあ、ということに気づくようになりました。誤字・脱字やページの体裁などの問題は、誰でも同じように赤ペンで直しをするわけですが、それ以外の、鉛筆で書き込むレベル、つまり「こうした方が適切ではないですか」「正確ではないですか」というような指摘は、校正者の個人的なバックボーンというか、「この分野はちょっと知ってるぞ!」ということが、モノをいうところがあります。社内では「アタリがつく」などと言っているのですが、文章のジャンルにアタリがつく校正者が読んだ時には、内容にまで深く踏み込んだような指摘を、ぱっと出すことができたりするのです。

          のみかたは、少し翻訳をかじっていたことがあるので、翻訳ものの文章を校正するときにはアタリがつくことがあります。日本語の文章を読んでいて「ここの意味、よくわからないな…」となったときに、「原文の外国語は、きっと〇〇でしょう。それなら●●という訳語の方が正確では?」という指摘を出したりするのです。

          実際にあった例ですが、世界の伝統建築についての文章を校正しているときのこと、海からかなり離れた内陸部で、マグロのペーストを使った家を建てる、という文章が出てきたことがありました。これはおそらく、別の材料だろうな、と思われたので、マグロに対応する英語 tuna を調べたところ、同じつづりで「ウチワサボテンの実」を意味する tuna というスペイン語(たしか)の単語があることがわかったのです。

          こういう指摘を出せたときは正直とてもうれしいものですが、あまり内容にこだわっていると、単純な誤字を見落としてしまうこともあるようで、一文字一文字見ていくというのが、やはり基本になるのだと思います。

          ところで、テレビで米国の総合格闘技の試合を見ていた時、実況解説者のコメントに合わせて出てきた字幕に「青コーナーの選手が所属しているのはプロレス系のジムですが、ここのジムは最近打撃の練習を強化しており…」という記述がありました。推測するに、これは「レスリングの練習を重視しているジム」の意味で pro-wrestling gym と言ったのを「プロレス」と訳してしまったのかなと…。アタリがつく方がいたら、教えてください。(のみかた)

           【管理人より】

          へーぇ、「アタリがつく」といういい方をするとは寡聞にして知りませんでした。「proー」については、「〜賛成の、〜ひいきの」(研究社「リーダーズ英和」)という意味の前置詞ではないでしょうか? かつてはよく「あいつはプロスタだ」などと悪罵したりしたものでした。もっとも、(のみかた)君の話の文脈には今一つ合っていませんネ……。

           

          | co-verita | 校正・校閲豆知識 | 04:14 | - | - | - | - |
          事実確認
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            事実確認

             

            いまさらですが、少し前に話題になったテレビドラマ「校閲ガール」。わたしは見たことがなかったのですが、知り合いから聞いたところでは、小説中の建物の構造を理解するために模型を作って確かめたり、レシピ本の校正をしながら実際に料理を作ってみるのだとか。伝聞による情報ですが、「校閲」の一般的なイメージを誇張すると、こんな感じなんでしょうか。なんだか、著者さんに「やかましい!」って言われたら全部むだになってしまうような気がしますが、どうなんでしょう。なんにしてもすごい時間あるな、とは思いました。

            校正をしていて調べものが必要なとき、のみかたは普段、「深入りしすぎず、手を抜かない」を心がけて調査をします。ただ、このバランスを保つのは結構難しい。特に、自分が少し知識を持っていることについては、つい余計に調べてしまうものです。それでも編集者、著者、そして読者の方々にとって有益(たぶん)な指摘を出せた時のうれしさは大きく、普段から多ジャンルにわたって興味を持ち勉強するのが大事だな、と思っています。

            ところで先日、「靴の消臭には10円玉が効果的」と聞きました。10円玉に含まれる銅に、殺菌効果があるのだとか。しかし、「本当に効くの?」「効くなら、何枚くらい入れればいいの?」、WEB記事でもいろいろな意見があり、わからない。生活豆知識系のムックなどを校正するときのために、これはぜひ実験してみなければと思い、やってみることにしました。

            片方に3枚ずつ入れて、一晩おいたところ、なんとなくさわやかになっているような気もするが、まだいまいち。短気な私は、買い物の釣り銭で60枚くらい10円玉を手に入れ、全部突っ込んで一日置いてみることに。しかし、靴の臭いはあまり消えず。

            もしかして大量だったのがいけなかったのかも、などと思わないでもないですが、靴がかな臭くなったので、再実験の予定はありません。豆知識系の仕事で10円玉の話が出てきたら、あまり深入りしないようにします。ひとつ、やってみて分かったこと。小銭が大量に詰まった革靴は、しょぼいへそくりみたいに見えます。    (のみかた)

            | co-verita | 校正・校閲豆知識 | 09:42 | - | - | - | - |
            おすすめ辞典その2 『数え方の辞典』(小学館)
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              梅雨に入り、湿気に悩まされる時季がやってまいりました。
              恵みの雨ではあるものの、朝はピーカンのお洗濯日和なのに、突然の雨が降るのは勘弁してほしいものです。
              あ〜、洗濯物が〜!

              最近、とても興味深い話が話題になっていました。
              作家の沖方丁さんがラジオで話したという、動物の数え方のお話をツイッターで紹介していたのです。

              宇津井俊平@utsu_shunさんのツイート
              https://twitter.com/utsu_shun/status/475124887015538688

              「(前略)牛豚は一頭、鳥は一羽、魚は一尾、つまり食べられずに残る部位である。では人間はどうか。一名二名……ああそうか、死んで名を残すから!(後略)」

              元のツイートをされた方、またそれに反応してリツイートやリプした方々が大勢いらっしゃったこともうなずける、なんともおもしろいお話です! また、このツイートに、「人を喰った話だと思います」(サイエンスカフェin静岡 ‏@SciCafeShizuokaさん)と返してらっしゃるのにも、思わずニンマリ(笑)。

              動物や物の数え方は、校正・校閲をしていても非常に悩ましいものです。
              ネットで手軽に、ということもできなくはないのですが(「もののかぞえかた」http://www.monokazoe.com/index.htmlなど)、網羅性、信頼性の面で……やはり、こういう時には辞典に当たると安心です。なかでも、『数え方の辞典』(飯田朝子著・町田健監修、小学館)は、非常に役立ちます。のみならず、帯に「日本語の豊かな゛数え方文化”に触れる」と記されている通り、解説を読んでいるだけでも楽しくなってきます。

              たとえば、動物の数え方が知りたい場合、「どうぶつ」の項目で引いて、そこに記された参照矢印に従って、コラムで数え方の歴史的変遷も含めた解説を読んで知識欲を刺激されるなど、実に楽しいです。動物の数え方で言えば、成人が抱きかかえられる動物を数える場合に一般的な「匹」と、大形動物を数える「頭」を、さらに巻末の「助数詞・単位一覧」でそれぞれ引いて読めば、いっそう知識も深まります。

              さてさて、それでは問題の「頭」。なぜ、「頭」で数えるようになったのか。211ページの「コラム12」をぜひご覧ください。
              ちょっとだけ紹介すれば、

              「(前略)大形の動物を数える『頭』の歴史は意外にも浅く、夏目漱石の時代にはまだ一般的には使われていませんでした。早くても明治末期から、英語の影響を受けたからだと考えられます。(後略)」

              あとは読んでのお楽しみ。
              ぜひ、本辞典をひもといてみてください!
               
              | co-verita | 校正・校閲豆知識 | 15:39 | - | - | - | - |
              役に立つ辞書(おすすめ辞典その1)
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                Verita連続講座第6回の講師、滝田恵さんのお話の中で、国語辞書も含め、ネットでたいがいは調べられるが、校正をするうえでこれだけは手元に用意したい、とおっしゃっていた漢和辞典。

                関連ツイート
                https://twitter.com/koseiverita/status/434569500151660544

                もちろん、漢和辞典ほか漢字の辞典は必須だと思いますが、ほかにネットでは調べようがない、それでいてあると役立つ辞書として、今回取り上げたいのは以下です。

                『てにをは辞典』(三省堂)

                刊行以来、好評ですので、すでにご存じの方も多いと思います。
                この辞典の編者、小内一さんは「校正者」とのことですので、やはり、校正者が何を悩み、迷い、苦しんでいるのか、わかってらっしゃるという点が、この本の使い勝手の良さの背景にあるかもしれません。
                実際、校正・校閲の仕事をしていると、たとえば「可能性」が“高い”のか、“大きい”のか、はたまた“強い”のか、などなど、あるいは“影響“が”強い”のか、“大きい”のか、“高い”のか(あるいは「影響力」とした場合どうか、など)、ちょっと不自然だなと感じる表現に引っかかりを持つことが多くあります。自分自身の「語感」といったものがこれまた案外当てにならないもので、別に正しいのにおかしいと感じたり、逆に、まずいものを見逃したり……何かに当たって確かめたいという経験は、何らかの形で文章を書く、あるいは読んで校正するなどなどの作業をしたことがあれば、なさっていることと思います。
                こうした場合に役立つのは、いわゆるコロケーション(語の連結)辞典といったもので、研究社等でも出しています。

                なかでも、ここで紹介する『てにをは辞典』は実用面でも優れておりますが、加えて、以下にリンクを記す東京大学文学部准教授の阿部公彦さんの書評が、この辞典の別の「魅力」をとてもよく伝えていると思いますので、紹介いたします。少々長いですが、ぜひ読んでみてください。

                紀伊國屋書店「書評空間」
                http://booklog.kinokuniya.co.jp/abe/archives/2011/01/post_79.html

                いかがでしょうか。
                私は、心が何かざわつくような、ワクワク感を覚えます。
                辞書を読む喜び、楽しみにいざなわれませんか?
                | co-verita | 校正・校閲豆知識 | 18:12 | - | - | - | - |
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