語り継ぐVERITA―校正者の独り言―

<< 台湾でストレッチをやってみた | main | 2019年年初のご挨拶 >>
怒りについて
0

    怒りについて(2018/10/7)

     

     いつ頃からだろうか。何かに怒ろうとすると、他人の顔を思い浮かべるようになったのは。怒りに共感するのでも反発するのでもない。菅官房長官のような表面的な冷静さでやり過ごす顔。そして意見の内容を見ずにそんな「冷静さ」を黙認する人々の顔。

     「冷静な」意見があるのは以前から知っていたが、相手の顔はそれほど意識していなかった。でも、「全く当たらない」「粛々と」といった言葉を使って質問にまともに答えない菅の話しぶりを見ても大して怒りの声が上がらない(最近でいえば安倍首相の「拉致問題を解決できるのは安倍政権だけだとは私が言ったことはございません」という発言に対しても)のを見ていると、どんな思いで、どんな顔をして見ているのかと不思議に思えてくる。いくら何でも静か過ぎる。日常生活で菅や安倍のようなことをやったらもっと怒るんじゃないのか。

     いや、立場を変えて自分が怒られることを考えると、全く理不尽とは言えないのかもしれない。正面から怒りを受け止めるより、少し引いて遠目から相手が怒っているんだと見ていると多少は気が楽になる。

     また、元来の無神経さが災いして、自分では悪気のない行動のつもりでも人を怒らせてしまうことがよくあったが、なぜ怒られるのか分からず戸惑ってしまい、ただ怒られたというネガティブな印象だけが残ることがよくあった(無論悪いのは自分)。もっとも自分が悪いことをしたという自覚があっても、相手の怒り方が悪いというように責任転嫁することもある(当然自分が悪い)。

     個人的な体験であり、他人が同じことを考えているのかは分からないが、誰もが怒られて楽しい思いをしたり、なぜ怒られたのかを正しく瞬時に理解できる、というのは考えられない。怒りを避けようとする感情から菅のような「冷静さ」を身につけたり、支持したりするのではないだろうか。そんなことを考えるようになって、率直な感情をぶつけるのは家族やごく一部の人たちだけになった。

     また、社会的な問題に対して怒っていると、気恥ずかしさを感じる。いろんなことに怒ってきたが、年を重ねてくると、大した人間でもない自分に何かを怒る資格があるのか、なんてあるのかと思えてくるのだ。自分の怒りなんて日頃の情けなさを隠蔽するためのポーズに過ぎないと思うことさえある。

     それでも。

     だれがどんな顔をしているか、自分にその資格があるのかとは関係なしに、

     怒ることは大切だ。

    (てーるはっぴー)

    | co-verita | - | 19:29 | - | - | - | - |
     123456
    78910111213
    14151617181920
    21222324252627
    282930    
    << April 2019 >>
    + SELECTED ENTRIES
    + CATEGORIES
    + ARCHIVES
    + MOBILE
    qrcode
    + LINKS
    + PROFILE